帝政ローマ

問題

 以下の文章を読んで、あとの問いに答えよ。

 紀元前27年に元老院から「アウグストゥス」(尊厳者)の称号を与えられたオクタヴィアヌスは事実上の帝政を始めた。彼はカエサルと違って、帝位を設置せず元老院や諸官職など共和政的な機関をそのまま存続させながら、実際はほとんどすべての要職を兼務して政治力を手に収めて統治し、自らを市民の中の第一人者と呼んだ。これよりローマは地中海全域に広がったローマ帝国の統治にあたって各地の有力者と手を結び、帝国領内に多くの都市を建ててローマ風の生活様式を導入させ、約200年におよぶ「ローマの平和」(パクス=ロマーナ)が保たれた。
 この平和のもとで経済活動も盛んになり、地中海世界だけでなく、アラビア・インド・中国とも交易が行われた。五賢帝の時代はローマの最盛期で、特に【 イ 】帝の時代には領土は最大となり、北は【 X 】から南は【 Y 】、東はメソポタミアから西は大西洋岸までの、アジア・アフリカ・ヨーロッパの3大陸にまたがった大帝国が形成された。ローマ人にとって地中海は内海に過ぎず、彼らは地中海を「我らの海」と呼んだ。
 ローマ人はギリシア文字からローマ字をつくり、その言語であるラテン語も帝国中に普及したが、ローマの文化は一般的に独創性に乏しく、文化的に先進のギリシア文化の模倣者であった。それでもアウグストゥスの時代はラテン文学の黄金期で、ヴェルギリウスは「農耕詩」の他にローマ建国叙事詩の【 ロ 】を書き、ホラティウスも平和の到来を優美な叙事詩で称えた。また歴史家としては、リヴィウスが「ローマ建国史」を、タキトゥスが「ゲルマニア」を記してゲルマン民族についての貴重な史料を残した。さらに自然科学の領域では【 ハ 】がギリシア以来の知識を集大成した「博物誌」を書いた。
 他方でローマ人は、広大な帝国を支配する必要から優れた実用文化を生み出した。特に土木・建築技術の水準は非常に高く、都市にはフォールム、コロッセウム、パンテオン、浴場、凱旋門、街道それに水道橋などが建設され、今日に残る遺跡も多い。同時にローマ人の実際的な能力は法や政治の技術にも現れ、なかでも
ローマ法はローマ最大の文化遺産と言われている。
 帝国の繁栄を支えていた諸都市が帝国による厳しい徴税により衰退し始めると、富裕層は都市を捨て農村に大所領を構えるようになった。またイタリアの大農場はしだいに奴隷制から
小作制に切り替えられていったものの、その産物の販路は属州の経済発展に押されて狭まり、イタリア経済の中心的地位は下降し、2世紀後半からローマの繁栄に陰りが見え始め、3世紀にはゲルマン民族やササン朝ペルシアの侵入に苦しめられた。帝国辺境の属州に置かれた軍隊は、各地で自立する傾向を強め、軍隊がそれぞれ勝手に皇帝を擁立して争う【 二 】の時代に入った。
 3世紀末に即位した【 ホ 】帝は、こうした混乱を収めて帝国の安定を図るために、皇帝権力を強化して専制支配を打ち立てた。これ以降を専制君主制(ドミナートゥス)の時代という。彼は広大な帝国を治めるために
四分統治制(テトラルキア)を導入し、皇帝崇拝の制度を定めて人心を引き締めようとした。しかし、キリスト教徒が皇帝崇拝を拒否したため、彼はキリスト教徒に対する大迫害を行い、多くの殉教者を出したが、すでに住民の1割に達していたキリスト教徒を敵とすることはもはや不可能であった。313年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令を出してキリスト教を公認した。また彼は【 へ 】公会議を主催して教義を統一し、イエスに神性を強く認めるアタナシウスの説を正統とし、イエスに人性を強く認めるアリウス派を異端とした。

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